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中岡慎太郎とはAbout Nakaoka Shintaro

中岡 慎太郎(天保9年4月13日 - 慶応3年11月17日)

二十歳の時、大庄屋の仕事を手伝い、北川村政に携わる。26歳で脱藩してから、薩長連合の成立、大政奉還実現をめざす薩土盟約の締結、三条実美と岩倉具視との和解を仲介、陸援隊結成など、徳川幕府に代わる新しい国づくりに奔走する。

北川村政に携わっている時期に、「人としての価値は、家柄ではなく、自分自身が何をなすかによって決まる」という哲学をもつようになる。脱藩後、様々な政治活動によって、「人間には長所がある。新しい国家は、各々の能力に見合う活動ができるようにするべし」という答えを出し、『時勢論』で、同志たちに主張した。

慎太郎の生涯

「誕生・武市半平太との出会い」

中岡慎太郎は天保9年(1838)、現在の安芸郡北川村に大庄屋の息子として誕生した。
幼い時から勉学にはげみ、めきめきと力をつけていく。そして安政2年(1855)慎太郎は田野学館で武市半平太と出会い政治活動にめざめる。だが父が病に倒れたという知らせを受け、家業の大庄屋職をつぐ。

「民なくして君や国はない」

村に戻った慎太郎は、村人たちが安心して暮らせてこそ国が成り立つという意識を常に持っていた。
水田がすくない村の飢饉対策としてゆずの栽培をすすめたのもこの時期といわれている。

「土佐勤王党に加盟〜脱藩」

文久元年(1861)、武市半平太は尊王攘夷運動を目的とする「土佐勤王党」を結成した。
慎太郎も坂本龍馬もこれに加盟する。しかし2年後の文久3年8月18日に起こった政変で事態は一変、各地で尊王攘夷派の弾圧が始まる。身の危険を察した慎太郎は脱藩を決意する。

「薩長連合を結ぶ」

脱藩した慎太郎は長州藩のもとで様々な活躍をする。
そして当時対立していた長州藩と薩摩藩の連合こそ新しい国づくりを進展できると確信した。時を同じくして同じ考えを持っていた龍馬と組み、薩長両藩の代表者を説得、慶応2年(1866)、ついに薩長連合を成立させた。

「陸援隊結成、無念の死」

慶応3年(1867)、龍馬は海援隊を慎太郎は陸援隊(謀報機関・軍隊)を結成した。
徳川幕府を倒して新しい国家を築く目前に、京都近江屋で龍馬と会談中刺客に襲われ、わずか30歳でその生涯を閉じた。